味の想ひで。。

今朝も 暑い。。

「地球温暖化」という現象は、その真偽の程を云々言われていても、最近暑いのは、恐らく誰しもが認めるところであろう。。

連日こう暑いと、夏もエアコンなどつけないで過ごす、と言ってられるのも、よほど天然の自然環境に恵まれた地域の住人か、頑健な身体の持ち主、あるいは、単にへそ曲がりか、精神か身体かいずれか、またわその両方の病人、かと思われる。。

とは、いうものの、たいへん難しいのは、暑いと感じる感じ方の、その個人差であって、それは例えば、公共の施設や交通機関における空調の調節(効かせ具合)の問題に繋がる。

電車なども、こちらが、思いっきり、ホームまで息せき切って走ってきて、発車寸前に間に合って乗車出来た際などは、効きすぎたエアコンから排出される、季節とかけ離れたひんやりした空気がかえって有り難いものだが、あまり歩きもせずに駅まで到達し、精神的に興奮状態でもなく、更に、若干気落ちしている時wなどは、冷房の効きすぎた車内がたいへん薄ら寒く感じられ、周囲の色調すら、いつもより一段階ダークな色合いに見えてきて、唐突に腹巻が欲しくなる。。。

この様に、公共の要望と、個人の欲求とは、そこには常に温度差から生じるずれがあるのであって、これは、どうにも致し方無い。。

・・かく言う私も、このまえ、電車に乗った際、(これは少し効きすぎているのでは?)と感じたことがあり、仕方ないので、降車後、何か温かい食べ物を摂ることで解決を図った次第である。。

であるから、私の場合、夏でも、熱々のラーメンを食べるのは、当たり前の習慣である。。
この画像は、このまえ、食べたラーメンである。。

これ↓↓


高田馬場にある店の、このラーメンは、初代店主が、京都の新福菜館にほれ込み、地元に帰ってから云々、ということで、誕生した一品らしかった。。

私は、もう何度となく行った、その何度目かの京都旅行中、ラーメンばかり食っていた回があった。。

それは当時、京都の御当地ラーメン事情を知りたい、という欲求からでもあったが、簡単にいえば、金が無かった。。

更に、言い訳めいた事を言わせて貰うならば、私はラーメンが好きなのだ。。。


・・・京都では、だいぶいぜん、窓を開けると、たくさんの墓が見える環境の、格安ビジネスホテル(当時)に、1週間くらい滞在したとき、観光ルートにある店は、ことごとく値段が高いのを知った。。

私は、暇ということと、旅の無目的、ということも手伝って、その某ホテルの近くのスーパー?のお惣菜コーナーに入り浸った。。そして、その値段の「安さ」に驚愕した。

それまで、京都に来ると、すぐ財布が軽くなったのは、私が観光ルートばかり歩いていたからだったのだ。。今では、当たり前のような些細な事でさえ、当時、若者で馬鹿者だった私には新鮮な驚きだったのだが・・

ここに通いつめることで私は、京都のひとびとも、間違いなく、コロッケ、和え物、など、普通のお惣菜を食していることに気づいた。。
あとは皆が、四六時中和服を着ているという誤解も解け、普通の小汚い身なりwのオバサンたちに混じり、ひたすら安堵したものだ。。。

現在のインターネット世代wwの若者からすると、大変奇異な表現に感じるかも知れないが、今より交通の便もよくも無く、別に親戚などもおらず、関東地方を主な活動の場としていた人間にとって、京都を含む関西地方など、まさに異世界に思える、そんな時代は確かに存在したのだ。。。

今となっては、そのような過去さえあったのか、既にあやふやになり、もはやどうでも良いことのひとつに過ぎないが、それでも、それら京都のお惣菜のなかで、異彩を放っていた逸品が、あった。。

それは、大きな木の樽に漬け込まれた状態で売っていた数々の、京野菜の漬物たちだ。
試しに買って食べてみると、これが美味い。。そのときは、スーパーで、ごはんを買い、漬物ばかり買って食べていた。。そして、たまにから揚げを買ったww これでは京都もへったくれも無い食事だった。しかし、から揚げの鶏肉が、にんにく醤油に漬けて仕込んであったのでこれも気に入った。。


あと、いぜん別な旅行で、鞍馬、貴船方面に行ったとき、宿泊した旅館で「木の芽煮」が出され、飯だけで、3杯おかわりしたときもあったw 鞍馬は、鞍馬水という、瓶入り水も売っていて、ものすごく美味い水だった。。


とにかく、京都は全てが、お洒落であって、まさに日本文化の担い手であり、それ相応の予算さえあれば、奥ゆかしい古都の味わいも、そして今ではコンビニなども普及し、東京などでのお馴染みのチープな味も気軽に味わえるようになったが、以前はとにかく違った。。

それまでの出来事から、私の脳内において、「京都の食べ物は、ろくなものが無い。しかし、おたべと、抹茶系と漬物は美味い」という常識wwが定着した。。

そして今から数年前に、ラーメン業界にてww京都のラーメンが持ち上げられた。。

最近の京都の売れ筋ラーメンを、私は知らないが、当時の背油ちゃっちゃ系や、天下一品系につらなる京都ラーメン流行時、大いに度肝を抜かれたのは、京都のイメージにそぐわぬ、そのギトギトさだった。。

まず、チャーシューがすごくでかい、とか、ばかのように焼きチャーシューを乗せてあるしょうゆとんこつなど、とにかく、しつこく濃い。。とにかく、スマートで、鼻の高いw京都のイメージにそぐわない下品さ。。

私などの関東圏での人間にそれまでの、京都のラーメンの誤った?wwwイメージを広めた店に 京風なんとか「あかさたな」wwというチェーン店が存在し、私たち一家はその良い客だったw

当時、共働きだった母が、懐が暖かくなると、地元デパートの最上階にあった、この京風ラーメンの店に連れて行ってくれ、たしか、おちょぼ・・一口餃子とか言う、小さく丸い餃子と京風ラーメンを注文するのを常とした時期があった。。これわ、我々、一家の苦しい時代の、ささやかな幸せのひとつだった。。

であるから、件のラーメン旅行の際、私のそれまでの京都のラーメンに対するイメージは、当時の背油ギトギトチャーシューどっさり系、これこそ、本格的な京都のラーメンどすえ、と言わんばかりの油ギッシュなラーメンたちに、昔の、儚げな可憐さを残した薄味醤油の思い出は蹂躙され、打ちのめされてしまった。。。

京都ラーメン旅行の際、ほうぼう車で移動したのだが、伏見のほうまでわざわざ足を延ばしたが結局、下品な感じのとんこつ系の店が数店あるだけで、私は、鴨川にかかる橋のひとつに車を止め、呆然と夜の川面を眺めていた。。

そして、かなり真夜中、たどり着いたのが、第一旭ラーメンたかばし本店だった。。

真夜中にも関わらず、店内は混んでいた。。そのとき出てきた、熱々で、湯気の立った、ネギのどっさりのった、昔ながらのしょうゆ味のさっぱりしたラーメンの感動は今でも忘れられない。。

で、けっきょく、別の旅行のとき、京都駅から徒歩でw新福菜館にも行ったのだが、、

このラーメンたちのおかげで、私は、私の幼い頃の京都のラーメンのイメージを捨てずに済んだのだ。。しょうゆ味スープはどちらの店も、けっして薄いとはいえないが、面白いのは、こういってはなんだが両店とも味が似ている。。あとこのラーメンはネギがとても合う。。


で、この高田馬場の店のラーメンの話しに戻るが、何か魚系の味で、京都のオリジナルのそれより、スープに甘みが増しているような気もした。。
それは、悪く言うと、「田舎臭い」が、関東圏の我々は、ともすると郷愁の誘われる味といえるかもしれない。。

こう考えてみると、エアコンが効きすぎた車内や、コンビニエンスストアにお礼を言っても良いかも知れない、と私の混濁した思考の隅に感謝の2文字がひっそりと、生まれた。。

なんとなれば、車内でエアコンに冷やされ続けたからこそ、熱いラーメンが食べたくなり、そして、関東のこの地で、京都の、思い出の味に巡り合えた。。。

なんという奇跡!
味を巡る、郷愁は、数々の奇跡によってまた、その命を新たに輝かしていったのだ。。。

全てに感動、全てに感激、全てに感謝!( ´∀`)












見えない部分にこそ。。( ´∀`) 光を!

 

前回の・・更新から、だいぶ間が開いてしまった。。

その間に、人並みに、いろいろあった、とは、自分なりに感じてわいるが、取り立てて文にして残す、という手間をかけるほどの事は、自身のささやかな人生において起きえなかった、との漠然とした自負、のようなものわ、はある。。

というか、「人」という存在についてありきたりでわあるが「考察」を行い、それを自分なりに深められた時間が、少しは過ごせたとわ思う。。


人は、得てして、目に見える部分にのみ、気持ちをやり、目に見えない部分はけっこう、おざなりにして平気なのものである、という、ありがちではあるが、一般的に共感を得やすい、いわゆる人間存在のマイナス面が、まさに、まごうことなき、まぎれもない事実であった、という。。微かな幻滅と、僅かに戦慄を伴ういくつかの出来事に遭遇した。。

詳しくわ、、省くがw 主に「床下」である。。(・∀・)

みなさん(誰?藁)は、床下・・居住空間の最も基礎的な空間である「床下」に想いを馳せたことがあるだろうか?

・・私は、ある(・∀・)w

私は、過去に引越しを幾たびが繰り返した者の一人である。。その度に、不可抗力とも思える居住空間に対しての、不都合な事実と、幾たびも闘ってきた。。

簡単に言うと、家の劣化などであるが、築年数がそこではひとつの目安となる。。

しかし、既に過ぎ去った苦しい過去に思いを致すのわ、本意でわないので、ほんとに思い出したくも無いが、今回の住居においても、そのような出来事に遭遇した。。

具体的に言いたくも無いのであれだが、世の中における人間存在わ、立派な人間と、そうでない者の2つに、分類されるのは、たぶん事実だ。。

前者とわ、まさに、「人が見ていなくても、やるべきことわきちんとやる」という、人間であって、後者とわ、その正反対である。。

ここで、にんげんの価値観は、多様性に富むものであり、けっして、どれかひとつの価値観に拘束されるべきでない、という真理も、また尊重すべきものである、との認識は絶えず失いたくわない。。

しかし、ここで、基準としたいのわ、まさにお茶の間で、茶飲み話しにおいて話す程度の、ありふれた一般的な価値観であることをお許しいただきたい。。(誰にw)

であってみれば、人がみていないからといって、適当な仕事をして、その対価として報酬を持っていく人間は、やはり、碌な人間でわない、といってもけっして過言でない、ように感じている昨今である。。

ひとの居住空間というものを、「ハレ」と「ヶ」の分類にかなり強引にあてはめた場合、いわば人目につきやすい部分が「ハレ」であって、問題わ、「ヶ」の部分に集中しやすい。。

もちろん、床下は、「ヶ」の世界に属する。。

床下は、光溢れる床上の居住部分に比べ、欲望と怠惰、背徳と、混沌の潜む、陰の空間である。。

私わ過去、幾度か、恐るべき、この空間の真実にぶち当たり、人間存在を疑うこともしばしばであった。。

人々が湘南とうらやむw地域においてわ、浴室の床下の配管付近から尋常でわない、多量の毛髪&避妊具その他、またあるときわ居間として使用していた部屋の床下が、隣の社員寮の、水漏れで、広大な沼地と化していたこと、その他もろもろである。。

中央線沿いの古い街でわ、床下、および天井に潜む、鼠、ゴキブリ、そのほかのおぞましい小動物群との陰惨極まる長い長い闘いに、心が折れそうになったこともあった。。

で、今回であるが、まだ、現在進行中であるのと、気持ちの整理wwがつかないなどの、幾多の要因から多くを語るのを、やはり差し控えたいww

しかし、キーワードは、造花(チューリップ) 腐ったカーペット、おやつの食べ残し、(工務店の人間のw) 廃棄物の違法な埋め立て、地盤沈下、など、多岐に渉っており、私は、この事実をもって、人間のこころの闇を垣間見た気がしている。。

一生が、もし、何かの学びの機会として、あらゆる人々に与えられた賜物であるならば、私は何故、このような風景を見ねばならないのか?

突き抜けるような青空に、或いは夜空に満天に輝く星空に、自分の身を置き続けていられたら、それわそれで、退屈かも知れないが、何が言いたいかといえば、世界は醜さに彩られてもいた、という諦観にも似た感情が、床下における身動きもままらない自分の胸中に去来していた、その虚しさは、いったいいつまで続くのか・・・

それわ、誰も知らないし、風さえも知らない。。



それで、良いのだ。。。それで。。

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ミサイルマン( ´∀`) 。。。

 

わたしは、ザ・ハイロウズの「ミサイルマン」という曲が好きで、以前よく、口づさんだものだが、ここ最近、北がミサイルを発射するのか、しないのかで、世間がゆれている。。


なんでも、10日に液体燃料を注入し、それは3~4日で酸化して使い物にならなくなるということで、14日くらいまでに撃たなかったのなら、もう、発射は無いとのことである。。

北のこの外交姿勢には、周辺諸各国も、ほとほと困り果てていることであろうが、わたしが言いたいのは、稚拙なミサイル外交のことでわない。。

北のこの一件わ、やはり、若ものに、権力を持たせると、あまりろくなことわ、起きないという見本でわないかと思うのだ。。

かくゆう私も、以前わ、たしかに若者であったww

若者、という存在は、読んで字のごとく、若いひと、の意であってwまだ、世間的な面において、未熟な存在である。。しかし、若者の真っ最中には、そういった事柄にも、なかなか、気づきにくいものだ。それこそが、逆にまた、若者の若者たる所以ともいえるのであるが。。

一概に加齢が良いとわ言えないのであるが、世間多くの若者は、まだ、人間として経験が浅く、逆に「一途」(まっすぐ)な人間性を、年長者に比べ、まだまだ多く、保持している。。したがって、時折、それが裏目に出たとき、無謀とも思える行為に走る。。

しかし、若者、というものにも、まさに良い部分も存在し、それは、「将来性」という人生の宝と、「純粋一途」なめんを持つ、というこの事実である。。

私も若い、と自他共に、認められる年齢だった頃わ、年長者を見ると、すべて汚くwwwwwおもえた。。( ´∀`)

大人は、醜く、汚く、ずるくて、老獪で、あくどく、情熱のかけらもない、とんでもない生き物で、小りこうなw大人全部を、殲滅しなければ、いわゆる老害で、世の中に悪が蔓延るばかりである、と考えていたものだ。。

しかし、これは、じっさい、歳をとってみるとわかるが、おおいに間違いであるw

一国を左右する様な、重大なポストに、世襲制などの弊害から、人生経験の未熟な若者をつけてしまうのわ、まさに、亡国の危機となる場合がある。。

たしかに、おっさんは、加齢臭で、臭く、汚いw  しかし、たった、ひとつ良いことがあるのである。。

それわ、この地上の生物として、若者より多くの時間を重ねた存在である、という一点である。。( ´∀`)

若者時代には、それさえ軽視せられがちなファクターであるが、これは、若者時代に考えているより、はるかに重要なもので、これのみに、おっさんの価値が全集約されている、といってもww言い過ぎでわないのである。。。

それなら、ただ、単に、若者時代に、あらゆる物事の経験数を増大すれば良いといった見方もあるのだが、これには頷けない。。。

ひとは経験数によっても、たしかに判断に違いは生じるであろうが、もっと決定的な違いが生理学的な面において存在している。。

そのひとつであるが、人間は、歳をとるごとに、脳波が変わる、ということが知られている。。

例えば、リラックスしたときに出るといわれる、アルファー波も、70歳だと、平均10Hz、それが80歳頃になると8~9Hz、といった具合に、加齢とともに段々と、ゆっくりした波形となるのである。

つまり、同じ人間の姿をしていても、若者と親父でわ、実は脳の使い方の面で若干違った存在となるのである。。

おそらく、こういった大脳の生理学的な面での違いなどから、同じ物事に直面しても、若者と、年配者とでは、その感想や、判断に、おのずと差異が生じるであろうことは、充分考えられることである。。

そんな訳であるから、あまり、若いものが重要なポストにつくことに、注意を促したいが、それを世間的には、単に、負け犬の遠吠え、ととられても、いたしかたない、ということで、一旦、筆を置きたい。。(´・ω・`)。。。

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